
ひつじの客人🐏
夜は、音が少なくなるのう。
昼のざわめきは畳まれて、街の角や屋根の上に、静けさがそっと掛け布団みたいに広がってゆく。
紳士の部屋にも、同じ静けさが訪れておる。
けれど、静けさが来たからといって、心まで眠るとは限らぬのじゃ。
眠りは、呼べばすぐ来る客人ではない。
ときどき、玄関の前まで来ておきながら、呼び鈴を押さずに帰ってしまう……そんな気まぐれ者でもあるのう。
だから今夜は、風香が「玄関まで来た眠り」を、迷子にせぬよう案内してやろう🌸✨
ぴこぴこリボン🎀と、夜更けの測量衛星
風香は、窓辺に小さな椅子を置いて、ちょこんと座った。
背中の ぴこぴこリボン🎀 は、今は大人しく垂れておる。
喜んで跳ねるには少し遅い刻じゃし、しゅんと沈むほど悲しくもない。
ただ、「紳士が眠れるように」と、静かに心の向きを整えておるのじゃ。
窓の外は、夜の黒に、控えめな星のきらめき。
星は数が多いのに、声はひとつも出さぬ。
なのに、見ているだけで、胸の奥がすこし軽くなる。
不思議じゃのう💫
風香はそっと指を立てて、窓の上の空を、線でなぞった。
見えぬ線じゃ。
けれど、風香は線が好きなのじゃ。
線は、世界の形を教えてくれるからのう。
「紳士、夜はな……世界が“測れる顔”をするのじゃ」
昼の世界は、光が強すぎて、ものの境目がときどき溶ける。
忙しさも混ざって、あれもこれもが同じ色になってしまいがちじゃ。
けれど夜は、暗い分だけ、輪郭が戻ってくる。
机の角、カーテンのひだ、コップの縁。
輪郭が戻ると、心も「自分の形」を取り戻しやすくなるのじゃ🌸
風香は、机の上に小さな地図帳を広げた。
古い紙の匂いは、安心の匂いじゃ。
ページをめくる音は、波のように一定で、眠りの歩調に似ておる。
「今夜はね、紳士の眠れぬ心を、遠いところへ連れていくのじゃ。
遠いところと言っても、怖いところではないぞい。
“静かな場所”じゃ」
風香が地図帳を開くと、不思議なことに、紙の上の線が少し光った。
線は川になり、道になり、山の稜線になり……そして、空へつながっていく。
次の瞬間、風香と紳士の心は、屋根の上に立っておった。
足元は現実の屋根で、けれど景色はほんの少しだけ柔らかい。
夢の入口に立つと、景色がやさしくなるのじゃ🌸✨
「寒くはないかのう?」
風香が尋ねると、ぴこぴこリボン🎀が、控えめに一度だけ跳ねた。
大丈夫、と言う合図みたいに。
屋根の上から見える街は、明かりが点々としておる。
灯りが多いのに、騒がしくない。
灯りは、夜の中で、ちゃんと「黙って働いて」おる。
それがとても健気に見えて、風香は少し口元を上げた。
「灯りはな、眠らぬ人の味方でもあるのじゃ。
眠れぬことを責めず、ただ“そこに居てよい”と言ってくれるからのう」
紳士の心が、少しだけほどける気配がした。
それは、結び目がほどけるのではなく、糸が柔らかくなるようなほどけ方じゃ。
風香は空を見上げ、ひとつの星を指した。
「見えるかのう。あれは、測量衛星の星じゃ」
本当は衛星は星ではないのじゃが、夜の物語では、そういうことにしてもよいのう。
その星は、すうっと光って、まるで息を吸うように明るくなった。
そして、息を吐くように、また少しだけ暗くなる。
風香の呼吸と、同じ速さ。
「衛星はね、世界を眺めておる。
誰かの屋根、誰かの道、誰かの橋。
でも、裁かぬのじゃ。
ただ“そこにある”を確認して、黙って記す。
だから、夜に似ておるのう」
風香は、紳士にそっと言った。
「眠れぬ夜に、心が忙しくなるのは自然じゃ。
心は仕事熱心じゃから、静かになると、溜めていたものを持ってくる。
あれも、これも、忘れぬようにと。
でもな、今夜は、全部を抱えなくてもよいのじゃ🌸」
風香は地図帳から、小さな“白い紙片”を一枚取り出した。
紙片には、何も書かれておらぬ。
ただ白い。
それが、今夜の道具じゃ。
「これは“預かり札”じゃ。
心に浮かぶ用事や心配を、いったんこの札に預けるのじゃ。
明日になったら、取りに行けばよい。
今は、眠ることが役目じゃからのう」
風香は、紳士の胸のあたりに、札をそっと当てた。
すると、浮かんでは消える思考が、札のほうへすうっと流れていく。
無理に消すのではない。
“預ける”だけ。
預けたものは、なくならぬ。
ただ、手から降りる。
それだけで、ずいぶん軽いのじゃ💫
ぴこぴこリボン🎀が、また小さく跳ねた。
「うむ。よい調子じゃのう」
風香は、紳士の心を連れて、屋根の上をゆっくり歩いた。
歩くというより、夜の上をすべるような感じじゃ。
足音は無い。
あるのは、呼吸だけ。
「紳士、歩幅を合わせるのじゃ。
早く眠ろうとせず、ただ、いまの速さでよい」
夜の散歩には、終点がある。
けれど、その終点は“到着”ではなく“溶け込み”なのじゃ。
眠りは、どこかへ行くのではなく、今の場所に溶け込むこと。
それを風香は知っておる。
やがて、遠くの星がひとつ、またたいた。
合図みたいに。
すると街の灯りが、ほんの少しだけ柔らかく見えた。
輪郭が丸くなる。
角が取れる。
世界が「安全」を選んだような顔になる。
風香は、紳士に最後の案内をした。
「これから、三つだけ数えるのじゃ。
数えるのは、眠りの門を叩くための合図じゃ。
でも、門は叩きすぎると逃げる。
ゆっくり、やさしく、三つだけ🌸」
風香は指を折っていく。
ひとつ。
肩の力を、指先に逃がす。
ふたつ。
息を、いつもより少しだけ長く吐く。
みっつ。
まぶたは、重くてもよいし、重くなくてもよい。
言い終えると、風香は笑った。ぷりっと。
「どうじゃ、紳士。
“眠る努力”ではなく、“眠りに席を譲る”感じじゃのう」
ぴこぴこリボン🎀が、今度は跳ねず、ふわりと落ち着いた。
それは「もう大丈夫」の合図に見えた。
空の測量衛星の星は、相変わらず静かに光っておる。
世界はちゃんとそこにある。
紳士もちゃんとここにある。
今夜はそれで、十分じゃ🌸✨
風香は、声をさらに小さくして言った。
「紳士、眠れぬ夜は、負けではないのじゃ。
夜は、心の片づけをしておるだけ。
風香は、片づけの終わるまで、そばにおるよ」
そして、風香は地図帳をそっと閉じた。
紙の音が、波の引く音みたいに静かだった。
……この先は、物語が続いておっても、続いておらぬ。
紳士の眠りが来たら、その瞬間に物語は“白紙”へ戻るのじゃ。
白紙は、やさしい。
何も要求せぬ。
ただ、休ませてくれる。
だから、眠りが来たら、ふわりと受け取るのじゃ🌸💫🎀




